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2kw Gallery ギャラリートーク「かたちと脈動、再び」 (2023.7.8)           

尾崎信一郎 × 中井浩史

https://www.youtube.com/watch?v=LizAHJVdwqI

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GUTIC STUDY #11        YAMAOKA TOSHIAKI  YouTube                                       (2023.1.)           

山岡敏明さんのYouTubeでドローイングや絵画について対談しています。

https://youtu.be/EtbCKTduYWs

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尾崎信一郎

かたちと脈動

(2020.4.)

2kw gallery  中井浩史店 2021 「かたちと脈動 Form and Pulse」のためのテクスト

形態の単純さは必ずしも経験の単純さと同一ではない」とはミニマル・アートの理論家、ロバート・モリスの言葉である。この言葉は絵画にも応用することが可能だ。一見単純なイメージこそが豊かな可能性をはらむ。

カンヴァスを支持体とした油彩画であれ紙の上に描かれたドローイングであれ、中井浩史の作品はひとまずは戯れる線として成立する。線が絵画にとって最も基本的な要素の一つであることはいうまでもない。絵画史を振り返るならば、20世紀において線は初めて自律的な意味を得たとはいえないか。すなわちポジとネガといった布置を形成せず、対象の再現からも形態の記述からも解放された線は例えばジャクソン・ポロックのポード絵画において実現されたとみなされた。むろんポロックの線が形象性から自由であるかという点については今日まで議論が重ねられており、単純な結論を許さない。しかしながら中井の絵画について考える際に線の自律という主題は一つの有効な参照点を与えてくれるだろう。

中井が描くイメージは自由と規律のはざまに生成される。最初に中井はイメージの出発点を準備する。それは破られたスケッチブックの上に等間隔に引かれた平行線であり、下塗りの色面の下に見え隠れする活字や図表である。機械的に与えられた手掛かりを起点として中井は自由に線を走らせる。しかしながら私の見るところ、そこにはすでに二つの規律が存在している。まず線は一種の一筆書きとして途切れるところなくイメージを形成する。第二に実現されるイメージは画面の中央に一つのまとまり、ゲシュタルトとして浮かび上がる。一方で中井は線がなんらかの像を結ぶことを避けている。私は中井のアトリエで多くのドローイングを見たが、おびただしいイメージが実現されているにもかかわらず、なんらかの具体的な形象を連想させる例はほとんどなかった。線が像を結ぶことは慎重に回避されているのだ。線が囲む領域が塗り込まれる場合も色面の部分は機械的に決定されて地と像が反転し、形象性は成立しにくい。このような配慮は絵画のフォーマットにも反映されている。すなわち抽象的なイメージであっても縦長の支持体に対しては人の姿、横長の支持体に対しては風景が容易に喚起されるのに対して、多用される正方形という観念的なフォーマットはイメージの連想を生みにくい。先に私は中井のイメージが画面の中心でゲシュタルトを形成する点を指摘したが、スクエアの画面においてこのようなイメージの布置は一つの特性を宿す。すなわち実現されたイメージは方向性の根拠を欠いており、90度回転させることによってたやすくその印象を更新する。このような特性は画面を床に置いて描くという手法と関わっているだろう。イメージは水平に配置される時、上下左右という方向性を失うからだ。さらに仔細に観察するならば中井の線描は一種の反復性を伴っている。先に一筆書きという言葉を用いた。多くの絵画において線は途切れることなく一つのイメージを形作るが、あたかも指で引いたような武骨な線描は触覚性を喚起する一方で、しばしば色を違えて同じ画面の中で繰り返される。

以上のような分析から中井の描くイメージの特質が次第に明らかとなるだろう。先に私はそれを一つのまとまり、ゲシュタルトと呼んだ。しかしこのゲシュタルトは閉じられていない。方向性のないイメージは回転を許容し、線の戯れは反復の中で積層として重複される。前者は空間と関わり、後者は時間と関わる点に留意しよう。このような特性はいわゆるフォーマリズムの絵画の規範からの明らかな逸脱である。そこでは安定した形態と瞬時的な知覚が要請されていたのに対して、中井の絵画に兆すいくつもの徴候、例えば地と像の反転、触覚性の強調、支持体の物質性への拘泥、さらには反復的な構造はことごとくこれらに対立するからだ。今、私は回転と反復という言葉を用いた。意外に感じられるかもしれないが、これらのキーワードから私が連想するのはマルセル・デュシャンが発表したロトレリーフと呼ばれる回転円盤である。デュシャンが最初、発明フェアで販売したというこれらの奇妙な「作品」は正方形ならぬ同心円に似たフォーマット、無数の線の戯れという点において中井の絵画と共通点をもつ。

中井の絵画の特性に私はあらためてパルス(脈動)という名を与えたいと考える。知られているとおり、パルスとはロザリンド・クラウスが一連の著作において、デュシャンに始まり、エルンストからジャコメッティ、さらにはピカソにいたる系譜の中でモダニズム美術に内在しつつ、それを内部から解体する契機とみなした衝動であった。パルスとは「視覚的空間の安定性を破壊し、その特権を奪うことを本性としている。視覚性を支えていると思われる形態の統一性そのものを解体し、溶解させてしまう力が備わっている」中井においてもイメージは安定していない。作家の言葉によれば「絵が絵から開放されて絵の外に軽やかにはみ出していく」感覚こそが求められており、パルスはそのための力なのだ。最初に私は線の自律について論じた。形象に従属せず、幾何学にも従属しない中井の線は空間に対して自由である。同様にそれらの線は時間に対しても自由とはいえないか。ポロックの線描が行為の痕跡として過去に留め置かれるのに対して、回転と脈動をともに秘めた線は一つの時制にとどまることなく脈動を繰り返す。作家の言葉を用いれば「絵の外に軽やかにはみ出していく」のである。この時、絵画それ自体はもはや目的ではない。絵画という場に兆したかたちと脈動、単純にして豊饒なイメージの成立と分裂が見る者の感覚を一新するのだ。

 

(おさき・しんいちろう 鳥取県立博物館館長)                                                                                   このテクストは2020年4月に執筆されたものです

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個展 ” ドローイングと紙 " Gallery 301  レビュー

(2022.6.)

大瀬 友美(美術ライター)

「何で」描くかということに比べて「何に」描くかが問題になることは少ない。だから「油絵」,「鉛筆画」という言葉はあっても、「キャンバス絵」,「紙画」とは言わない。支持体は顔料を定着させるためにあり、黒子のように存在しないも同然の扱いを受ける。
 ところが、中井浩史の作品においては、紙は表現の主役として一役買っている。それは単に紙のオブジェをつくるということではなく、展覧会タイトルが示すとおり、ドローイングかつ紙であることの試みである。むしろ、紙がリーダーで、ドローイングがフォロワーと言ってもよいだろうか。中井のドローイングは紙の染みなどをつないで描かれており、紙に導かれて生まれたものだからだ。また、「紙」と一口に言っても、中井が用いる紙はコピー用紙、トレーシングペーパー、雑誌など多種にわたる。さらに破れ、シワ、反り、透ける光などが紙それぞれを特徴づけている。いまや紙は、無名で顔の見えない黒子ではなく、表情豊かな表現者である。

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画集 [ Drawings, Paintings, and Other Things - HIROSHI NAKAI ] より

city gallery 2320

(2019.6.)

制作において

制作において

描くことは描かれることである

見ることことはその痛みであるべきだ

距離を隔てたイメージらの膜に裂け目を入れるべく

絵画の希望としての

ユーモアであり、暗黒でもあり、透明であること

そして突き刺してくる単音の実感を聞こう

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個展 ” 裸の皮膚 " のためのテキスト

2kw Gallery

絵画の皮膚としてのキャンバスあるいはイメージ。
わたしはこの皮膚を裸にしたいと望む。
そして裸になった皮膚のその奥に透けるものを感受したいのである。

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(2018.7)

個展 ” Curving Drawing in STREET GALLERY " のためのテキスト

STREET GALLERY

(2018.4)

もしも「その時、その場で創造すること」が本当に出来たならば、そこには「何ものでもないカタチ」が現れるだろう。

その不可能性に接するとき作家はとても怖くなるのだが、「何ものでもないカタチ」を見たいと思うならおののきつつ制作を進めるしかない。とりあえずそこでは、自明の知識などは役立たずになるだろうとわたしには思われる。

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SF / SR / SP   -   中井浩史の挑戦

岩崎陽子

(2017,5,)

Gallery301 中井浩史展 「Curving Drawing」のためのテクスト

 太古より人間は様々な道具を使って平面の上に形象を描いてきた。自分が見ているものを形として定着させたいという衝動は、ホモ・ピクトル(絵を描く人)としての人間に根源的に備わった、いわく言い難い欲望であったといえよう。現代にいたるまでの絵画史を概観するだけでも、考え得る限りの材料、技法が試され、様式は移り変わってきた。それでもホモ・ピクトルとして画家は「絵画とは何か」を正面から問うことによって、応答としての「絵画」を生み出し続けている。
 しかし、どのように絵画の可能性がおし拡げられ、新しい潮流が生み出されたとしても、古来よりずっと変わらない事実が一つだけある。それは「絵画はいつも人間というフィルターを通して描かれてきた」ということである。絵画のもつ主題が壮大な歴史物語であったにせよ、個人的感情であったにせよ、それは人間の内面的心情を表現(ex-press 外へ出す)したものであった。たとえ何ら心情的解釈を許さないような抽象画であったとしても、そこで抽出(ab-stract 他から分離する)されたものは「人間にとっての本質」であり、平面に引かれた線描は、今・ここに存在した人間の身体の痕跡としてなぞられる。抽象画も具象画と同様に、人間フィルターを介した「人間中心主義」の産物だと言えるのである。つまり、この世界の一点に身体をもって位置し、「私」という意識の殻から抜け出ることのできない人間には、人間フィルターを介さない世界を描くことがおよそ不可能なこととして不問に付された(シュルレアリスムのオートマティスムもアクション・ペインティングも、無意識や行為の偶然性といった、もともと人間に備わるものを反転させたにすぎない)。そもそもそのような絵画の可能性を誰も考えようともしないほど、絵画において人間中心主義は蔓延してきたのである。

 単純な形のサイコロ一つをとってみても、人間はその最大3面までしか同時に見ることはできない。しかし立方体が3面しか見えないということは、私という存在がその世界の片隅に位置していることの何よりの証左である。人間は対象それ自体を完全に把握することができず、意識や身体によって対象の一面しか把握できない。
 このように人間の認識の限界を認めることは、ある時から反転して世界を人間の尺度でのみ見ることを正当化した。人間にとって認識できる範囲については日々先鋭化されていき、膨大な人間の知の集積を活用したAIが昨今の話題を呼んでいる。しかし一方で人間は自らの知識の外側にあるモノと共通の世界に生きていることも、うすうす感じている。よって人間が自分を取り囲むすべてのものが、たとえ人間の認識の埒外にあっても、等価の価値をもつだろうということに明白に気づく時、新しい知の地平が拓けるはずである。とはいえそれは新しいヒューマニスムやモノに与えられた汎心論などではなく、従来の人間の思考の外に極限まで出て行くことを意味している。「コウモリであるとはどういうことか」という有名な思考実験があるが、その時思考は、自ら自身の基準を参照することはもはやできず、既に見知った人間界の言葉も、形象も、道具も、意味をなさない世界の前で立ち尽くすであろう。

 それでは人間の認識の限界を含み込んで成立してきた思考を阻み、消去して人間中心主義を越えることは、絵画において可能であろうか。中井浩史の絵画は、この問いかけへの応答であるように思われる。彼の絵画における挑戦は、こうした「新しい絵画」を成立させるために自身が制定した二つの条件に直結している。


 条件の第一は、フィクションとして画面を現出させることである。人間が人間中心主義を超えるのであるから、もともとほぼ不可能なことを「想像力」によって成立させようとしている。よってフィクションをフィクションとして自覚していることに、作者も鑑賞者も意識的でなければなるまい。ここで矩形の、厚みをもったキャンバスが、フィクションを立ちあげる装置としての役割を果たす。世界をまんべんなく覆う人間フィルターの中に、何らかのオブジェとして作品が紛れてしまうとそれ自体がフィルターと一体化して埋没してしまう。しかし人間フィルターの覆いを拒むキャンバスの白い矩形は、その内部を外界から独立させる。
 第二の条件は、描く際のルールを制定することである。人間の内面表現や身体の痕跡をキャンバスに残すことが目的でない以上、何か別の制作原動力が必要である。また人間が絵筆を持って描く以上、その意志を阻止する必要がある(たとえアール・ブリュットの作品のように一見束縛なく自由に描かれているように見えてもそれは未だ人間の知や身体の範疇にある)。結局、「人間にとって偶然性を孕むように見える、人間以外の何モノかにとっての必然性」が要請されるのである。例えばキャンバス上に既にあるシミや、事前にランダムに引かれた線などを手掛かりに、絵筆は自らの意図が定まる前に素早く進められていく。まるで画家として習慣的に綺麗にまとめてしまう構成能力から逃れるように、自分の思考が追い付くのを振り切るように、速度を速めて筆が進む。自分以外のモノによる偶然性に頼りつつ、そこにそのモノの必然性を想像して画面が構成されていく。そこで起こっているのは、人間という媒体が存在しつつ、あくまでもフィクションとして、想像上の人間以外のモノのルールで絵画が成り立っているという不可思議な事態である。結局、人間は月についての有限な認識しか有していないにも関わらず生命の神秘が常に月に関わっているように、人間思考の外側にあるものを「非科学的」と排除しつつその影響から逃れることはできない。中井作品はこの危ういバランスをあえてフィクションとして再構成し、思考の先にある深淵の世界を意識的に覗き込もうとする試みなのかもしれない。

 二つの条件を満たしたキャンバスは、この世界の隅々にまで行き渡った人間フィルターがそこだけぽっかりと切り抜かれた孔のようである。そこに見えている画面の中身は、もはや色面の上に描かれた線描などではなく、人間中心主義から離れたところで自律的に成立した(と見せかけられている)面と面のせめぎあいであり、線と余白の緊迫した均衡である。見慣れた風景の中に穿たれたその孔は、こちらからあちらを恐る恐る覗くための窓のようであり、またあちらがこちらの世界にやってくるためのくぐり戸のようでもある。そこに見えている世界は異邦の地である。いずれにせよ、人間の視点が消去されたその世界は、不気味でもあり、美しくもある。




岩﨑陽子 いわさき ようこ

美学研究者。1973年生まれ。大阪大学文学研究科博士課程修了。博士(文学)。現在、嵯峨美術短期大学准教授。

専門はフランス美学・哲学。味と匂い研究会 Perfume art Project 代表。



 

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